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沖縄自治研究会

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第6回講座 下

 さて、レジュメの3の構造改革と三位一体というところに話を進めてまいりたいと思うわけです。ここでは、構造改革とは一体何なのかということを私なりに説明をした上で、あるべき分権改革の理念というものはどんなものかということについてお話をしていきます。

 まず構造改革とは何かということから始めたいわけですが、そもそも構造というのは何でしょうか。

 先ほど、小泉政権というのは田中型政治を解体しようとしているということを申し上げました。そこに一つのヒントがあるのかもしれません。あるいは、私はこの問題を考えるときに、日本は成功した社会主義だという言説、議論を一つの手がかりにして考えております。

 日本は成功した社会主義あるいは社会民主主義だという言いぐさはどういう意味を持っているのか。これは一つには、日本は戦後一貫して平等あるいは社会の平準化を政策的な目標として追求してきたということを指しています。

 そしてそれに関連をして、行政、官僚制の持っている力、干渉、介入というものが非常に大きい。またそれのちょうど表裏一体の問題として自由な活動あるいは競争に対する干渉、規制が大きいということ。こういった特徴をとらえて、社会主義とか社会民主主義という言い方がされます。

 80年代のある時期までは、国民の9割が自分を中流と考えるような非常に平準化された社会ができ上がって、それが確かに安定していて、経済的なパフォーマンスが大変優れていたということで成功したという表現がその前についているわけであります。

 そういう特徴をとらえて、成功した社会民主主義という言葉が出てきて、しかしそれがもはや日本の経済にとっての手かせ足かせになっているから、そこの部分のモデルチェンジをしなければいけないということで、構造改革論が出てきたわけであります。

 いわゆる成功した社会民主主義なるものは、中央地方関係とも大変密接なつながりを持っているわけです。なぜかというと、日本の場合平等を考える際に、西ヨーロッパにおけるような資本家と労働者の間の階級的な格差を埋めていくという平等ではなくて、むしろ大都市と地方という空間的な意味での平等が、政策の最も重要な目標になったからであります。

 戦後の自民党政治の中で非常に重要な意味を持ったスローガンとして、「国土の均衡ある発展」というものがあります。つまり、全国どこにいてもみんなが同じような水準の生活ができるような社会基盤を整備し、教育や雇用の機会を保障していく。これこそが政治の目標だということですね。

 田中角栄という人は、それを最も色濃く体現した政治家ですね。雪深い新潟県から東京へ出て行って、都会の文明、都会の便利な生活というものを雪深い日本海側の地域にも普及させる、広げる、これこそが政治なんだということを盛んに言う。先ほどから言っている田中型政治というものは、そういう理念に賛同する政治家が集まって、同じようなモデルの政治活動を全国津々浦々に広げていったということであります。

 そういうわけで、空間的な意味での平等が、日本の戦後経済社会システムの非常に重要な柱になっていったわけです。ということは、逆に言うと、西ヨーロッパの本家本元の社会民主主義にあったような社会保障、社会福祉の役割というものは、むしろ日本の場合、限定されていたということがいえます。

 もちろん、日本にも公的年金や医療保険はあるわけで、アメリカみたいなひどい状態ではないのですけれども、国民経済に対する社会保障関係の支出の金額、割合をとって見れば、日本は先進国中最低水準であります。フランスやドイツといった西ヨーロッパの国々に比べれば10ポイント以上低いわけですね。ということで、決して本当の意味での社会民主主義ではないのです。

 他方、皆さんおなじみの公共事業の金額をとって見れば、日本はGDPの7%ぐらいのお金を公共事業、公共投資に使っているわけでありまして、これは欧米の3倍、4倍の水準です。

 つまり西ヨーロッパの社会民主主義の国が雇用や福祉、教育といったさまざまな社会政策を通して階級的平等を追求したのに対して、日本の場合は公共事業あるいは地方交付税など、地方に対する財源面での再分配というものを通して、空間的な平等を追求してきたということです。
 あるいは、規制の分野についての政策について見ても、かつての農業における厳しい輸入の規制や小売業とか各種サービス業についてのさまざまな規制によって、競争力の弱い会社が淘汰されることのないようにしてきました。いわゆる護送船団型の規制というものがとられていたのです。そういった規制の面からも地方が重視されてきたということであります。

 改めて日本的な再分配政策の特徴を描いてみたいと思います。お配りしているレジュメの一番最後のところにある座標軸を見ていただきながら話を聞いてほしいのですが、社会経済政策というものを2本の軸で特徴づけようとしたのがこの図です。

 縦軸というのはリスクの社会化、リスクの個人化という軸であります。リスクの社会化とはさっきも言ったように、災い、困難、苦労が特定の人や地域にのみかぶせられるようなことのないように、国民みんなであるいは社会全体でそういった災い、困難、苦労というものを分かち合うという発想です。

 それに対してリスクの個人化というのは、よきにつけ悪しきにつけ、自分で苦労を背負い込む、自分でリスクを取る。その結果、うまくいけば全部自分の得になる、失敗したら自分が責任を取る、そういう発想です。

 ですから、リスクの個人化という観点から言えば、政府のお節介、干渉というのはなるべく小さいほうがいい。だから、減税規制緩和あるいは民営化という政策が、リスクの個人化路線から出てくるということです。

 リスクの社会化とは、ある程度みんなでお金を出し合いながら公的な医療保険や年金制度をつくるというのが代表例です。あるいはさっきも言った空間的な意味での平等ということを考えれば、経済力、財政基盤の弱い田舎の自治体に対して、地方交付税や起債や補助金といった形で再分配して、それによって、特定の貧しい地域に災いや苦労が集中することのないようにしていくということです。

 戦後の自民党政治、あるいは田中型政治というものは、リスクの社会化という理念を追求していったということが言えるわけです。

 横軸は、リスクの社会化を具体的に実現する際の政策の手段に着目したものであります。

 右側にあります普遍的政策というのは、基準やルールがはっきりしているものです。左側の裁量的政策というのは、基準やルールがあまりはっきりしていない、権限や財源を持ったお役人のさじかげんとか、自由な裁量によってある程度動かし得るようなタイプの政策です。

 普遍的政策の例としては、例えば公的年金。65歳になったら年金が幾らもらえますとか、あるいは義務教育みたいに、6歳になったら子供はどこに住んでいても必ず公立の学校に入れてもらえて、同じような中身のカリキュラムの教育を受けることができるとか、そういったルール、基準というものがはっきりしているタイプのものを普遍的政策と言います。

 中央地方関係で言えば、地方交付税というのは普遍的な政策の色彩を持っています。つまり一応基準財政需要というものをいろいろな指標、尺度を通して計算して、それで基準財政需要と、自治体の基準財政収入を比べて、足りない分を地方交付税で補填するということですから、一応のルールというものはあるわけです。

 左側の裁量的政策というのは、これはさっきも言ったように、権限、財源を持った官僚の胸先三寸、さじかげんで左右できるということです。代表的なものは、補助金の箇所付けです。全国あちこちから採択要望がある、陳情が上がってきた、その中でどれを採択するかというのがその代表例であります。また、いわゆる護送船団型の規制政策もそうです。権限を持った役所と監督される業界とが密接に連絡をとって、その場その場で行政指導などを行いながら業界の秩序を維持していくということがずっと行われてきたわけです。

 というわけで、戦後の自民党のとってきた政策の柱は、リスクを社会化するという意味では平等を追求したけれども、具体的な手段として裁量的な政策を中心にしてきたということです。

 政治にとっては、裁量的政策の中でどのように具体的に資源配分をするか、権限の運用をするかということが最も重要なテーマであったわけです。放っておいても自動的に公平、平等に行政サービスが提供されるような領域は、政治家はあんまり関心を持たなかったわけです。族議員などというものがいっぱい生まれるのは、もっぱらこの裁量型の政策であります。道路族、商工族、運輸族などいろいろな族がいますが、補助金をどこに箇所付けするか、許認可をどういうふうにしてやっていって、どういう企業に許可、認可を与えるか、そういった領域において族議員が跳梁跋扈したわけです。

 ということで、政治にとっても最も主たる関心事は、裁量的政策だったのです。

 さっきから言っているように、この二つの組み合わせで、国土の均衡ある発展あるいは空間的な平等を中心とした日本の国づくりというものが行われてきたということになるわけです。とりわけ地方から見れば、この二つの組み合わせは、大変快適なものでした。戦後の日本は、地方にやさしい集権体制という意味を持っていたわけです。

 何といっても、地元選出の与党の代議士先生は、裁量型の政策のところに一生懸命食い込んでいって、何とか補助金を地域にもぎ取ろうとして動いてきたということです。また官僚の側も、そういった政治の力というものをうまく利用した。そういう意味では官僚と族議員というのは共存共栄の関係にあったわけです。要するに各省庁が予算を拡大していくためには、全国からいろいろな陳情・要望が上がってきて、それに応えるということを通して自らの仕事を増やす、官僚の権益を拡大していくということがずっと行われてきたわけです。

 そういうことで、政官ともに権益を追求して行動するという動きの中で地方も保護されてきたというのか、その中でいろいろと援助を受けてきた、そこに陳情型政治あるいは依存型政治というものがはびこったという結果になったわけであります。

 その仕組みが本格的に動き出したのはやはり1960年代、高度経済成長でした。そして70年代、80年代前半にかけて、それがフル稼働していったということです。

 北海道から沖縄まで、同じような形で社会資本整備が行われている。高速道路がつくられ、あるいはある部分新幹線がつくられ、各種の公共施設箱ものが整備される、農業基盤整備で灌漑用水とか農道とかというのがどんどんつくられていくという形になったわけであります。

 実際、そういう政策の恩恵というのは全国あちこちに及んだわけでありまして、私も北海道に行ってもう随分長いのですが、北海道における暮らしは予想していたよりも非常に快適であります。

 特に札幌というのは大都市で、地下鉄のネットワークもありますし、沖縄の人にはわからないと思いますけれども除雪というサービスについても、実にちゃんとやってくれています。公園、下水道など、いろいろな市民生活のインフラも非常に整備されているという状況で、そうすると人口が多くて過密な東京圏にいなくてもそこそこの利便性を確保できるということになります。そういうことでありまして、北海道にいるとやっぱり国土の均衡ある発展の恩恵というのはよくわかるわけですね。

 だから、地方に優しい集権体制なり国土の均衡というのは、一定の達成が
あるということは評価しなければいけないと思うんですね。ところが、この仕組みが行き詰まってきたというのがこの10数年の現象であります。

 なぜかというと、一つはやっぱりグローバリゼーションの影響です。いわゆる大競争の時代に入ってきています。リスクを社会化して、弱い者も抱え込みながらみんなで生きていくという経済社会のあり方から、強い者が思い思いに伸びていく、競争をしていくという経済社会のあり方に変わらなければいけないということが盛んに言われるようになったわけです。

 あるいは、バブル崩壊以後の財政危機の中で、リスクの社会化をしようにも元手がなくなってしまうという問題が出てきた。さらには、このリスクを社会化するということは、さっきも言ったみたいに競争をある程度抑制する、競争力の弱いものを抱え込むということですから、他方で高コスト社会という問題が発生するわけです。つまり、日本の場合はものやサービスの値段が高い、公共事業はみんなで談合するからどうしてもコストが高くなってしまう、そういう問題ですね。

 さらには、リスクを社会化することによって、モラルハザードという副作用も出てくる。例えば、中央と地方の関係で言えば、財政基盤の弱い自治体に対して国が援助をするというときに、借金の面倒を交付税で見るという例の交付税措置という手法が10年ほど前から多用されるようになっています。そうすると、どうせ借金をしても国のほうでちゃんと交付税の算定基準に入れてくれるんだったら、どんどん借金をして箱ものをつくろうかというような安易な姿勢の自治体も出てくるということです。そこにモラルハザードが発生します。

 そして、もう一つ裁量的政策が政治や行政の腐敗と結びついているという病理現象が、この10数年特に目立つようになりました。

 90年代の政治改革の引き金になったのは、佐川急便事件という運輸業界における許認可行政にまつわる腐敗事件です。さらには、90年代の初めゼネコン汚職によって、公共事業の発注における指名のあり方をめぐる腐敗がいろいろと出てきました。さらには、かつての大蔵省と銀行業界の間のように、護送船団型の規制に伴う官僚と業界の癒着腐敗も出てきました。

 仕上げは、一昨年の鈴木宗男の騒ぎであります。要するに政治家があっせん、口利きに精を出して、公共事業の補助金を持っていく。その見返りに政治献金をもらうというようなあっせん、口利き政治というものの問題が、広く国民全体の知るところとなりました。

 こういう文脈の中で、小泉の構造改革が登場してきたということです。この小泉流構造改革というものをより知的に理解しようとすれば、小泉さん本人はあまり知的に言ってないんですけれども、これは従来のリスクの社会化に対するリスクの個人化、それから裁量的政策に対する普遍的政策の組み合わせを一応打ち出そうとしていることになるんだろうと思います。

 つまり、例えば小泉経済政策のスポークスマンたる竹中平蔵の言っていることを拾っていけば、これからの時代はリスクテイクというのが大事なんだと、盛んに言うわけです。だから、個人でリスクを取っていろいろとビジネスをしなさい、競争をしなさいということを盛んに強調している。それに関連して規制をどんどん緩和していく、あるいは税金を少なくすることによって、個人や企業のインセンティブを高めていくということを言っているわけなんですね。

 だから、小泉さんの言う小さな政府とか官から民へというのは、リスクの個人化路線というものを目指しているのだろうと思います。実際、構造改革の中で非常に早い段階から具体化したのは、例えば医療保険の改革による医療費自己負担分の引き上げです。あるいは特殊法人はけしからんというので、官から民へというスローガンのもとでいろいろな特殊法人が整理されています。私どもの関係で言えば、日本育英会という特殊法人もけしからんというわけで、独立行政法人に移行したわけです。

 そうすると、やはり商売の色彩が強くなってきますから、昔のように無利子で貸与するとか、あるいは返済免除なんていうようなことはなかなか難しくなってくる。要するに、教育費を出すのも自分で何とかせよという話になってくる。

 金融面での貸し渋り、貸しはがしなんかもそうですね。昔であれば、地域の金融においてはお互いによく知った間柄の人間関係があって、逆風のときにはちょっと条件が悪くても資金をつないで、またよくなるまで我慢する。そういう、ある種のリスクの社会化をやっていた。

 これに対して、ある時期までの金融政策というのは、大手の銀行と同じようなマニュアルを地域の信用金庫なんかにも当てはめて、債権の分類をして、駄目なものはもう不良債権という処理をすると。最後は債務超過ということになれば、もうその会社をつぶしちゃうわけです。そういう話で、地域では貸し渋り、貸しはがしという問題が深刻化しているということですね。

 ペイオフを解禁するという話がもし本当になるならば、一般預金者もリスクを個人で引き受けて、つぶれない銀行を自分で探してそこに預けなさいという、大変過酷な話が現実のものとなるわけですね。

 最後に極めつけは、年間の自殺者が3万人を超えているという状況で、経済的な自殺者が増えているという現象です。つまり、借金が返せなくて自殺してしまうというのは、リスクの個人化の究極の形態ということになります。

 そこだけ見ますと、構造改革というのは単に政府の役割を縮小して弱者をいじめる話なのかという、どこかの政党のスローガンみたいになるわけですけれども、小泉の構造改革はやはり一定の人気を集めている、国民も何となく支持しているわけです。

 それはなぜかというと、小泉さんの人気の源泉が官僚批判にあるという点に気がつくわけです。つまり、従来、官僚の権力の源泉であった裁量的政策というもの、この不明瞭さ、不透明さ、あいまいさ、これを小泉さんは非常に巧みに攻撃をしているということです。官僚の裁量や政治家の圧力によってゆがめられている政策について、もっと明確なルール、基準を当てはめることで政策を再編成するということをやっている。

 例えば、道路公団の問題もそうです。道路の収益性、効率性というものを尺度として、もうかるところはつくる、もうからないところはつくらないという話になってきている。つまり、小泉流構造改革の掲げる普遍的政策の普遍性なるものは、収益性とか効率性という資本主義経済のルールです。もうかるところはやる、もうからないところはやらないと、こういうわかりやすいルールということになるわけです。

 そういうことで、本来の小泉構造改革というものは、リスクの個人化路線と普遍的政策の組み合わせというパッケージを目指そうとしているわけですが、実際問題として自民党という政党に乗っかって政権を維持する以上、予算や法律を通すためには自民党の多数派の政治家との妥協も必要になってくるということで、すべてを効率性・収益性という尺度でばさばさ切り捨てるというわけにはなかなかいかない。

 政治家が寄って立つ権力基盤を維持しようと思えば、多少、筋をゆがめても田舎に道路をつくるということは、これからもある程度は必要になってくるということです。例えば道路公団の問題でも新直轄式と言って、もうらからないところには新しい枠組みで、直轄事業で道路をつくりましょうと言い出しているということです。

 あるいは金融の問題でも、全く市場原理とリスクの個人化で、ばさばさと不良債権の処理をしていくかというとどうもそうではありません。例えば、りそな銀行と足利銀行の処理の仕方を比べてみますと、実際、銀行の経営状態自体はそんなに違ったものではなかったのだろうと推察できますが、一方は無慈悲に破綻処理され、他方は2兆円もの公金を投入して何とか生きながらえたという形になっています。これはやっぱり昔ながらの裁量的政策ということになるわけです。

 ということで、今の構造改革は何となくそういう意味で筋が見えにくくなってきている状況です。リスクの個人化路線という基調は変わってない、それが構造改革の大事な柱だということは押さえておく必要があります。

 これを中央と地方の関係に当てはめてみるとどうなるかということです。そこに三位一体というものの位置づけが出てくるわけであります。

 三位一体というのはもう一度繰り返せば、地方交付税の改革、税源の移譲、それから補助金の削減、この三つですね。それぞれはもっともな話でありまして、税源の移譲にしても、補助金の削減にしても、私を含めた改革派と言うのか、あるいは体制批判側の学者も要求してきた事柄であります。だから、それ自身は大いに結構な話かというと、中身を見ていくとよく気をつける必要があるわけです。

 例えば、補助金を削減して税源委譲をするという話があります。この「補助金」という言葉の使い方一つとっても、そこに一つのトリックがあるわけです。私が先ほどから問題にしている補助金というのは、裁量的政策の補助金です。

 つまり、中央省庁の役人が抱え込んでいて、恩恵的に地方に施し与えるようなタイプ、要するに道路とか農業関係とかそういうタイプのことです。これが結局さっきの言葉で言えば政策における需要と供給のミスマッチを生み出す元凶なんですね。ひも付き補助金ですから、国の規格・基準に従わないと駄目だと言われる。そうすると、地域の実情とは全然ずれたような公共事業をやるはめになってしまうわけです。こういうことはあちこちにいっぱい事例があります。だから、そこを変えるのが補助金改革のはずなのですが、蓋を開けてみるとどうか。

 補助金の中でも、削減の中でいろいろ議論されている事柄は、例えば義務教育費の国庫負担金あるいは生活保護費の国庫負担金です。ところが、義務教育とか生活保護は本来普遍的政策の一番重要な柱です。つまり、そういった政策は、国からの補助金があろうがなかろうが、そこに子供がいれば、そこに生活に困窮した人がいれば、自治体は必ず政策をしなければいけないという問題です。

 そもそも国の責任として子供への教育とか貧困者への救済ということをしなければいけない、それを自治体に事務を任せてやっている。そのために必要なお金は国が負担をするという形で負担金を出してきたわけです。そこの部分の金を削られる、そしてその削った補助金を一般の税源に振りかえて自治体に渡す、これはほとんど意味のない話です。つまり、国の補助金がなくなっても教育という政策は続けなければいけない。それに伴って、常に一定のお金は必要になるのです。だから、これは自治体にとって金の裏づけはなくなるけれども仕事は依然として続くという、誠に不条理な仕打ちなるわけであります。

 そういうことで、補助金削減と税源振りかえという話にしても、大きなトリックがある。あるいは税源への振りかえ、税源の移譲という問題をとってみても、結局、地方にとって税源が増えるということは何を意味するか、ちょっと気をつけておく必要があるわけです。

 所得税とか法人税といった基幹税を、部分的に地方税に振り替えるという話。これも、部分的には金子さんや神野の先生なんかは主張してきたことと重なる部分もあります。しかし、その種の基幹税を地方に移すというときに税の偏在、偏りについては、よく注意しておく必要があるわけです。 

 つまり、北海道であれ沖縄であれ、いわゆる経済的・財政的な基盤が弱い地域にとっては、地方税が増えるということは必ずしも税収が増えるということを意味しないわけです。法人の本社がほとんどないような地域で、法人税の一部が地方税になりましたなど言われても、これは絵に書いた餅です。
 そうすると、法人の本社が集中して立地する地方とそうではない地方との間で、今度は新しい地方の法人税というものの再分配の仕組みを考えないといけないということになります。

 実は、そこに財務省のずるさが現れています。従来、地方交付税というものは、自治体と国との間の垂直的な税の再分配の仕組みを通して、空間的な意味での再分配もしてきたという性格があったわけですよね。つまり、大都市で上がってきた所得税や法人税、酒税を国税として全部集めたうえで、その一定割合を地方に再分配していく。要するに、国が一回取ったものを地方に分けるという垂直的な再分配を通して、空間的にも北海道から沖縄まで再分配をしてきたということです。

 これを例えば地方税に移すということになれば、この空間的な再分配というものを担保するメカニズムは残らないはずです。

 財務省は、地方共同税という問題について、部分的に言及しております。地方共同税、つまり地方税の再分配について、地方同士で話し合いをしてやっていくという仕組みについても検討をする必要があると言ってはいるのですが、それは将来、増税を中心とした税制改革をしていく中で考えていこうと地方分権推進会議の文書の中で言っているわけであります。

 この点は、東大の神野先生が非常に厳しく批判した点です。結局、財務省
としては、端的に言えば国の財政再建の重荷を、地方に転嫁していくという、そのための手段として、地方分権改革あるいは三位一体改革ということを打ち出しているということではないでしょうか。

 つまり、地方共同税などと言っても、そんなものがすぐにできるわけはありません。大都市圏と地方との間では、非常に深刻な利害対立があるわけですから、これからは所得税とか法人税を地方税にしますよと言っても、すぐに空間的な再分配を行うメカニズムができるわけではないのです。  

 しかし、財務省から見れば、あとはもう知ったことではないということになるのでしょう。だから、裕福なところは多少減税をするということが可能になるのでしょうけれども、絵に描いた餅の所得税や法人税を地方税としてもらっても、大半の自治体は単なる歳入減というという現実に直面するしかないということです。しかしそれこそが財務省の狙いである。少なくなった税収の中で、地域経営をやっていきなさいと。それが財政面での地方分権ですよということを言っているのではないかと私は思います。

 ということで、小泉政権の三位一体改革というものは、やっぱり裏に財務省ありと。あるいは財政再建中心主義、財政再建至上主義という発想があるというふうに、今のところ私には思えるわけであります。

 要するに、日本の財政というのは、歳入、取る側からみれば、国が3で地方が2、使う面で見れば、地方が3で国が2という配分になっています。そうすると、財布のひもを締めるということを考えると、国でやっても限度がある。あるいは財務省の予算配分は、実は弱いもので、大口の省庁の予算はそう簡単に切れない。だとすると地方分権をテコにして、地方を通して財布の紐を締めるという、これこそが財政再建の一番の近道、安易な道ということになるだろうと思います。

 他方、総務省はどうか。総務省というのは、本当に地方のことをちゃんと考えて、財務省に対して闘っているのかというと、どうもそうではない。さっきから言っている補助金削減という話についても、自治体の側から見て、政策の需要と供給のミスマッチをなくすような補助金削減論というのは、だれも霞ヶ関では言ってくれてないわけです。

 あるいは今日は合併の話があまり触れられませんけれども、要するに数字の上で市町村の数をどんどん減らしていくということが大目標になっています。そのための手段として合併を促進するための財政上の優遇措置が、まだいっぱい並べられています。これなんかも言ってみれば非常に無責任ないし、もっと言えば犯罪的な話でありまして、要するに合併したところには、特例債を認めてやるとか、交付税のいろいろな特別措置があると言っていますけれども、そんなものは本当に続くのか。これから5年先、10年先に本当に特例債の償還費用を交付税で面倒見てくれるのかどうか。そんな保証はどこにもない。それを信じるのは多分バカだと私は思います。

 というわけで、本当に地方のことを考えている役所は、もう東京にはないのではないかと思います。

 無責任な状況の中で、地方がどうするかということですが、最後に道州制のことをちょっとお話しておきたいと思います。

 北海道で突然道州制特区構想というのがふってわきました。これなども意図、動機はかなり不純なものだと思うわけでありまして、北海道なんてお荷物だと、財政的にどんどん保護援助を減らしていきたいという動機がその根底にある。ただし、最初からそういう本音を言うと、また大変ですから、道州制特区ということを言いだしているわけです。

 つまり北海道特例といって、北海道はほかの県よりも手厚くその国から補助をもらってきた。そういった仕組みを全部解体していくためには、形の上で北海道特区というのは都合がよいわけです。現在のところ道州制特区の話というのは、100億円の道州制特区プロジェクトを何に使うかという話に収束しているところであります。

 ただし100億円というのも、新しく北海道のそういう実験のために増やすお金ではなくて、従来の北海道の公共事業を減らして、100億という別枠をつくるというだけの話なので、差し引きプラス・マイナス0の話であります。

 ただし、財務省から見れば、農水や国土交通がもっている公共事業を減らすというときに、正面からいって減らすというのはなかなか難しい。だから100億の道州制特区の部分という形で予算を別枠に移すことによって、国土交通や農水の持っている予算をこれからどんどん掘り崩すという展開につなぎたいという構想があるのだろうと思います。この間、道庁や開発局の連中の話を聞いていたら100億の話が来年度は1,000億になるというとんでもない話がすでに伝わっているそうです。そうすると、北海道に一見自由に使えるお金という形で別枠を立てる、それを通して従来型の公共事業費の配分というものをどんどん取り崩し、小さくしていくという戦術がどうも浮かび上がってくるわけです。

 残念ながら、北海道庁の役人というのも、どうも欲がない。道州制という話は、実は私自身5、6年前、97年のイギリスのスコットランドの分権改革の時以来、北海道でもこれをやろうということを言ってきました。島袋さんが、去年招待されたイゾベル・リンゼーさんは、私どもも2000年の春に北海道にお呼びしまして、そういった面での世論づくりも一生懸命やってきました。

 しかし、現実の問題として道州制特区という話が出てきたときに、自分たちに何ができるか。何をしたいかという、そこのところのアイデアが全くなかったのです。だから、小泉首相から突然そんなことを言われて、もうはっきり言って右往左往です。100億の特区プロジェクトをいったい何をやるかと言うと、本当にうろうろしているという状態です。これが1,000億円になったらいったいどうなるのかと、他人事ながら大変心配です。

 いずれにしても、道州制というものが、そういった財務省主導の予算の削減に向けたトリックとして、使われているという現状であります。
 しかし、私はそういう現状を逆手にとって、もっと踏み込んだ道州制の構想というものを北海道から出していくことが本当に必要なんだとつくづく感じているわけです。

 北海道は570万の人口がおりまして、大体スコットランドと同じぐらいの規模です。開発局と道庁の予算を合わせれば年に4兆円ぐらいのお金を動かしています。これはやっぱり一国としての体裁が十分あるわけです。ここで北海道独自の発想で政策を展開していけば、よしんば国からの補助金、交付税が例えば2割5分ぐらい減っても十分やっていけるというのは、心ある道庁職員が言っている話であります。

 そういう中で、国から言われたプロジェクトで金をどう使うかというよりは、北海道の道州制として、どのように仕組みをつくるのかということをもうちょっとちゃんと議論する必要があります。この機会を逃したら本当に自由もないし、金もないという最悪の状態になっているということです。金がだんだんなくなってくるというのは、これは日本全体避けて通れない問題ですけれども、せめて金が減るんだったら自由をよこせと、そういう形の改革の構想を立てる。今その最後のチャンスだというふうに私は思うわけであります。

 具体的な話は、時間の関係でもあまりできませんが、例えば農業関係の土地利用の規制とか、空港関係の権限の移譲がすぐに思い浮かびます。北海道に国際空港をつくると、これは北米とヨーロッパへの1番のゲートウェイになるのです。今、入国管理とか、検疫とか、税関とかいうのは、非常に手薄でして、なかなか国際空港機能を拡張できないのです。

 例えば、そういうのを道庁で引き受ける、それで国際空港機能をうんと拡張する、あるいは保税倉庫をもっと空港の周辺にたくさんつくっていく、そういったことが北海道の政策としてできるようになってくるとかなり違う。あるいは着陸料をもっと減らすとか、そういったことができるようになってくれば、北のはずれにある北海道というのは、実は日本で、北米やヨーロッパに一番近い空港ということで、一挙にいろいろなビジネスチャンスが広がってくるはずです。そういった仕組みをどうするかという話を今やらなければいけないと思うわけであります。

 沖縄も北海道と並んで、道州制をパイロット的に取り込む場所だというふうに思っています。これは前に加茂利男さんも前にお書きになっているようですが、本州のいろんな県を再編して道州制してつくるのは、大変難しい。しかし、北海道と沖縄は一つの道ないし県で道州制に移行できる条件があるのです。私も一国多制度という論文を書いたときに、憲法第95条で言っている一つの地方公共団体のみに適用する法律について、住民投票による同意が必要だという規定に注目しました。この95条に基づいた北海道自治法とか、沖縄自治法という法律をつくることによって、まさに道州制特区という段階からさらに進んで一国多制度というところに転換していくというストーリーを今はみんなで書くべきだと思うのです。

 この憲法95条の条項というのは、地方公共団体の自治権が国の立法によって侵害されることを防ぐために、住民による住民投票が必要だという趣旨で置かれているというのが憲法学の通説なんですけれども、自治権の侵害を防ぐという後ろ向きの消極的な話ではなくて、むしろ自治権を拡大する、展開するために、住民の投票による合意があれば、ほかの地域とは違う特殊な立法ができるんだよという積極的な規定として読み替えていくことによって、一国多制度への展望が広がっていくんだろうと思うんです。

 予定していた時間がだいぶ過ぎましたので、終わりにしますけれども、冒頭申しましたように、日本というのはやっぱり広い、北海道は今雪の下で本当に寒い。沖縄では20度で桜が咲いている。これだけ気候、風土、文化が違えば、やっぱりそれぞれの地域に適したローカルなルールというものを中心にして地域づくりをしていくという発想が必要になってきます。そういう意味で、沖縄と北海道からきたるべき道州制に向けた新しい地域の構想を出して、ともに日本の集権画一体制を揺るがしていくということを期待して、私の話は終わりにしたいと思います。


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